2012年07月26日

内膳、泣き堀の今

 *「植田内膳」翁、江戸時代前期の偉人で、特に楊原村地区(現沼津市香貫)の農業にとって、
今の礎ともなる、治水の偉業を成し遂げられた。
江戸時代、楊原(香貫)地区の農業用水は香貫山に降る雨を貯水池に貯め利用していたが、
天候に左右され、田んぼはいつも干ばつ状態だったとの事。
そこで、この状態を何とかしなければ成らないと植田内膳が立ち上がった。
内膳は香貫山麓を流れる狩野川から水を取り入れる事を考えた。

内膳、泣き堀の今
<昔、親父が釣に連れて行ってくれた深い所-青ガ淵- 現香貫大橋の近く>
しかし、河の水位は低く、水位を上げなければ香貫地区への水路に水は流れない。
色んな条件を考慮した結果、今の香貫大橋あたりの通称大滝の土手に
石で三ケ月形の堰をつくり治水口にした。

内膳、泣き堀の今
<堰を作った辺りにある記念碑、香貫大橋の下付近>
だが、工事は難航し苦心惨憺の上、5年の歳月が掛かった。
それ故、家産は傾き生命の危険さえあったと云う。
従って、この堀のことを内膳堀または、泣き堀と云う。
苦難の末、用水が出来上がり、お陰で香貫地区の農家は繁栄の一途をたどり
今尚、脈々と恩恵に授かっている。
今は狩野川からポンプで水路に水を汲み上げ流されいる。

内膳、泣き堀の今 内膳、泣き堀の今
         ポンプ場                    霊山寺横にある表示看板
水路の位置は昔とあまり変わらないが、霊山寺横を通っているものの
水路は完全にコンクリートで蓋をされ、綺麗な歩道と化している

内膳、泣き堀の今 内膳、泣き堀の今
        遊歩道化                    昔の面影を残す水路
少し香貫寄りに行くと、昔ながらの水路の面影。
全体的に殆ど平和的な環境の風景に成っている。

その陰に偉人さんのご苦労と功績を忘れては成らない。
私も香貫生まれで、親父からも時々内膳さんの話を聞かされていた。

「尊敬と感謝の念を、今も持ち続けている」






Posted by マスターエム at 21:53│Comments(1)
この記事へのコメント
こんな歴史があったのですか?
沼津の小学生は、しっているのでしょうか?
それとも、地区の歴史探訪で調べたのかしら?
沼津広報にも載せると良いですね・・・
Posted by ポコ at 2012年07月28日 22:09
 
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    コメント(1)